また、夫とともに歩き始めることにした。
とりあえず、しごとは辞めず続けてくれることに決まった。
よかった。
よかった、と素直に喜べない心がまだあってその後もいろいろ話し合ったけど
言葉とは、なんと難しいのだろうか。
言葉などあるせいで人は争いを起こすのではないだろうか。
言葉などなければ、相手のことをもっとよく理解しようと優しくなれるのではないだろうか。
どうせわからないのだからわかることだけわかろう、とよく観察できる。
話せば全て伝わる、理解できると
私たちは言葉にすべてを託しすぎている気がする。
放つ方も、受ける側も。
ダラダラ話し続けてもきまらない。
伝え続けたい気持ちと、読み取りたい気持ちと
あったとしても、どんなにがんばってもそれらは一致しないことはたくさんある。
大切な言葉は、
ありがとう、ごめんね、愛してる、許してね
ほ、おポノポノみたいにしてまとめてもいいのではないかと思ったよ。
夫と出会って、もう15年くらいかな?
結婚して10年、人は全てをわかりあえる訳ではないと、今は思う。
それは悪い意味ではなく、そこを求めすぎるといいことはない。
わたしも夫も息子も娘も、みんな別の人間だ。
わたしは夫がいつもどちらの足からパンツを履いているのか知らない。
実は毎日右足と決めていて、左から履いたらものすごくやっちまった!と反省しているなんてことがあるかもしれないのも、知らない。
まぁそんなタイプじゃないからこれはないにしても、人は自分のことしかわからないし
自分のこともわからない。
自分で思う自分も、誰かからみられる自分もまるで違う。
わたしはどんなにがんばっても夫とまるで同じ景色をみることはできないのだ。
それはわたしは夫の目玉はもってないから。
一緒の家に住んで、一緒にごはんたべて、同じように暮らしていても
人それぞれまるで違う毎日を、一緒に住んでいると同じ人生を歩んでいるのだと錯覚する。
でも、違うよ。
ちょっと前までわたしは絶対分かり合えると信じていた。
でも同じ目玉じゃなかった!
同じ舌も、鼻もないんだった。共有できないんだとわかったら夫との距離をうまく保てるようになっていった。
わたしはトンチンカンな完璧主義傾向にあるから全部知りたい欲に突っ走っていたのだろう。
自分の価値観や大切にしたいこと、欲、全てを夫に求めすぎた。
それが叶わなくて、喧嘩する。
その未来が不安になって、八つ当たりする。
それぞれに正義があって、それぞれに欠点がある。
それをいつも忘れてしまう。
どうも、ごめんなさい、ゆるしてね。
ありがとう、一緒にいてくれて。
これからも、よろしくね。
山あり谷あり、いばらの道をゆっくり怪我せず進みましょう。
愛してる。